2月28日スティムボードの誕生日

AEW

1953年2月28日、リッキー・ザ・ドラゴン・スティムボードの誕生日です。

父親がポーランド系英国人、母親が日本人(京都出身タカコ・イトウ)という血統。ニックネームはブルース・リーのイメージから「ザ・ドラゴン」。日本では「南海の黒豹」のキャッチコピーが付けられ全日本プロレスで活躍し、人気を獲得した。

ギミックの設定上、公式プロフィールでの出身地はハワイ州ホノルル(全日本プロレス中継では「母国日本」と紹介されたこともある)。息子はリッキー・スティムボート・ジュニア。

彼はニューヨーク州ウェストポイントで生まれ、高校時代にフロリダ州ガルフポートに移りました。彼はボカ・シエガ高校の州レスリングチャンピオンでした。

1976年、リチャードは本名のリック・ブラッドとしてプロレスラーデビューを果たした。彼が有名なリングネームを与えられたのは、エディ・グラハムの好意でフロリダからチャンピオンシップ・レスリングに行ったときだった。彼は、ハワイのレスラー、サミー・スティムボートに似ているという理由でリッキー・スティムボートを選んだ。グラハムの目にはリック・ブラッドがヒールの名前のように感じられたため、童顔の彼はスティムボードに変更したと言われています。

リッキーは2005年にロードエージェントとしてWWEに復帰し、 2005年10月のWWEホームカミングでレジェンドとして紹介された。スティームボートはWWE番組に散発的に出演したが、2009年にWWE殿堂入りを果たし、注目を浴びました。レッスルマニア 25では、スティームボートはロディ・パイパーやジミー・スヌーカを含むレジェンドチームの一員としてクリス・ジェリコと対戦した。ジェリコが試合に勝つだろう。彼の最後のWWE試合はレッスルマニアの翌日の夜に10人タッグ戦となる予定だった。しかしスティームボートの試合運びに 観衆たちは「まだできる!」と声援が飛んできました。これにより、スティームボートはバックラッシュでクリス・ジェリコとのシングルマッチをすることになり 試合はジェリコが勝利しました。リッキーの最後の試合はワールド・レスリング・カウンシルで行われ、息子のリッチーとチームを組んでハイラム・トゥアとオーランド・コロンとの試合でした。

スティームボートは、2013年にリッキーの息子リッチーがリリースされるまで、NXTのトレーナーとして、またタレント関係の仕事で働きました。それ以来、彼はWWEのアンバサダーの役割を引き受けている。リッキーはボディビル界の元ミスター・ノースカロライナで、レスリング・オブザーバー(1996年)、プロレスリング(2002年)、WWE(2009年)、NWA(2012年)の殿堂入りを果たしている。彼はまた 2009年に出版した 『プロレスリング・イラストレイテッド』 の自伝でスタンリー・ウェストン賞を受賞しました。


スティング天井からの最後の登場

2024年2月28日、この日行われたAEWにてスティングが天井から登場しました。
彼が天井から降りてくるのはWCW時代以来のことです。


バージル死去

2024年2月28日、「バージル」ことマイク・ジョーンズが死去した。61歳だった。WWEが28日に発表した。

 ペンシルベニア州出身で、1985年にプロレス入り。87年にはザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)の父ロッキー・ジョンソンとAWA南部タッグ王座を獲得した。同年にWWE入りし、〝ザ・ミリオンダラーマン〟テッド・デビアスのボディーガードとして活躍した。その後はデビアスに反旗を翻して抗争を展開し、人気レスラーとなった。

 96年にWCW入りして、伝説ユニット・nWоに「ビンセント」として加入。99年にnWоが解散するまで、人気ユニットに在籍した。2000年に現役を引退。10年にはWWEのロウで、テッド・デビアス・ジュニアのパートナーとしてタッグ戦に出場。19年から20年にはAEWにも「ソウル・トレイン・ジョーンズ」の名で登場していた。

 一方でバージルは異色のキャリアの持ち主でもある。バージニア大学で数学の学位を取得しており、引退後には地元ペンシルベニア州ピッツバーグのカトリック系高校の数学教師として、教壇に立っていたという。WWE公式ホームページには、バージルさんが「人々を尊重することを学んだ。それは私の生徒たちにも役立つ教訓だ」と語り、プロレスの経験から得た教訓を生徒に伝えたことも紹介されていた。米ニュースサイト「TMZスポーツ」などによると、近年のバージルさんは深刻な健康問題を抱えていたが、病院で静かに息を引き取ったという。

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