3月2日は、ギャリソン・ケイド、後のランス・ケイドとして知られるようになったランス・カーティス・マクノートの誕生日でした。
アイオワ州キャロルで生まれたランスは、テキサス州サンアントニオにあるショーン・マイケルズ・レスリング・アカデミーでショーン・マイケルズの指導のもとでトレーニングを受けました。ランスは日本のプロモーションであるフロンティア・マーシャルアーツ・レスリングでブライアン・ダニエルソンとチームを組みましたが、わずか3か月でFMWを離れ、米国に戻りました。
2005年になり、ケイドはランス・ケイドとして復帰し、新しいタッグパートナーであるトレバー・マードックと共にわずか1か月足らずでタッグタイトルを獲得しました。しかし、わずか1か月後、彼らはケインとザ・ビッグ・ショーにタイトルを奪われます。コンビは6ヶ月間で解散しましたが、DジェネレーションXとの短期の抗争のため再結成し、2007年には2回目のタッグタイトルを獲得。2008年にコンビが完全に解散すると、ケイドはショーン・マイケルズの弟子となりました。これはクリス・ジェリコとの抗争のためでした。
彼は薬物による生命を脅かすほどの発作が出て、ケイドは2008年10月にWWEから解雇されました。インディと日本での1年の経験を経て、2009年9月にWWEと再契約しましたが、翌年4月には条件付きでの解雇となりました。疑わしい事情があったとされています。
2010年8月10日、ランスは息切れを訴えてサンアントニオの病院に運ばれましたが、翌日には退院予定でした。しかしその2日後、ランスは心不全により30歳で亡くなりました。彼の死は、薬物の混合、酩酊、および心筋症が死因の一部であるとされ、事故死と判定されました。
ショーンvsテイカー WM25決定
2009年3月2日、この日のRAWでショーン・マイケルズがコズロフから勝利し、レッスルマニア25でのアンダーテイカーとの一騎打ちが決まりました。試合後テイカーが登場し、マイケルズに向けて首切りサインを飛ばしました。
オートンがHHHを挑発
2009年3月2日、この日行われたRAWでランディ・オートンがトリプルHを挑発しました。
オートンは「老人の頭蓋骨を蹴るのは最高に気持ちよかった。シェインに同じことをするのはもっと気持ちよかった。でも、ハンター、私があなたの妻にRKOを決めた時は…」
「私は今でも彼女の香りを思い出す、彼女の肌はとても柔らかかった。」
これに対しHHHは「お前の首をへし折ってやる」と返答、レッスルマニア25でシングルで対戦しました。
ジェリコがパイパーズピットを復活させる
2009年3月2日、この日行われたRAWで クリス・ジェリコがパイパーズ・ピットを復活させました。スタジオセットもロディー・パイパー時代の物をモチーフに再現されました。ゲストは「スーパーフライ」ジミー・スヌーカで、ジェリコはラウディを真似てスヌーカを口撃しました。
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